『吾妻鏡』は、1180年(治承4)から1266年(文永3)まで、87年間を描く。本書の記述は、1180年(治承4)4月、以仁王によって出された東国の武士に挙兵を促す令旨(りょうじ)が、源頼朝のいる伊豆の北条館に届くところから始まり、1266年(文永3)7月20日に、鎌倉を追われた第6代将軍・宗尊親王が京都に到着して将軍を退位するところで終わる。その間には、治承・寿永の乱と平氏政権の滅亡、鎌倉幕府の成立、承久の乱を経て、北条泰時の執権政治の始まり、更に13世紀半ば、1246年(寛元4)の宮騒動と翌年の宝治合戦を乗り切った北条時頼による得宗家幕府単独支配の達成がある。こうした武家政権や社会の動きを、将軍の年代記として日記形式をとり、吾妻鏡体とも称される和風漢文(変体漢文の一種で漢文体が著しく崩れた当時の日用文体)で記述されている。収録範囲としては、当初から宗尊親王の将軍退位までで終わる予定であったと見られるが、編纂自体はおそらく未完のまま中断との説が有力である。
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初代将軍・源頼朝から第3代将軍・源実朝までの源氏三代の記述については、頼朝にはそれなりの敬意は払っているもののかなり手厳しいところもあり、北条得宗家についてはその活躍や善政が高らかに強調される。この傾向は、特に北条泰時に関する記述に著しい。
本書編纂に際して参照するために収集された文献は、本書が編纂された鎌倉時代後期の西暦1300年頃に残る広範囲の文書類と見られる。その中心となるのは、大江氏、三善氏、二階堂氏ら、鎌倉幕府を支えてきた文筆の家(鎌倉幕府のテクノクラート)に残る幕府の記録、歴代文筆官僚の筆録、日記を中心に、北条諸家、縁のある御家人の家伝、訴訟の証拠として提出された偽文書をも含む書類、さらに寺社の記録、可能な場合は『明月記』などの公家の記録などである。このため、かなりの範囲で、鎌倉時代後期における認識が混ざっていると考えた方が無難であり、また一部には、明らかに編纂時の曲筆と見られる部分もある。特に、前半の源氏三代記については、『愚管抄』や『玉葉』など、同時代の公家の日記と突き合わせながら、慎重に研究に用いられる。
本書の写本のうち、最も有名な「北条本」の目録では巻数は全52巻であり、第24巻までが源氏三代で、そのうち15巻が頼朝将軍記である。源氏三代記以降の主人公は、北条得宗家である。ただし第45巻は欠落し、それ以外にも巻数すらふられずに年単位で欠けている部分が計12年もあり、そのうち連続する3年は「吉川(きっかわ)本」や「島津本」などの写本には存在している。したがって、全52巻とは元々の巻数ではない。
「北条本」の目録は、ほぼ南北朝時代に金沢文庫で作られたと見られるが、その段階で既に『吾妻鏡』の散逸が始まっており、室町時代には既に揃いの完本の形では伝えられず、断片的な抄出本や数年分の零本の形で伝わるのみであったと推測されている。それを複数の者が別々に収集しながらまとめていったものが、現在知られる複数の写本である。編纂当時の本書名は不明であるが、室町時代には『吾妻鏡』と呼ばれ、『東鑑』と呼ぶのは江戸時代初期の古活字本からである。
研究史の概要
林羅山、伊勢貞丈、榊原長俊、近藤守重ら江戸時代における研究を収録した『吾妻鏡集解』(和本)
[編集] 江戸時代の研究
江戸時代の吾妻鏡研究で有名なのは林羅山(道春)であり、徳川家康の為に『東鏡綱要』上下2冊を作成した。また黒田藩の家臣に書き与えた「東鑑考」は漢文325字の短文ながら的を射た解説を行っている。この時代に『吾妻鏡』を研究していたのは主に儒家、国学者であり、主に有職故実、武家故実の面からの研究であり、『吾妻鏡』についての著述のある伊勢貞丈、榊原長俊、大塚嘉樹は江戸時代に知られる有職故実の大家である。校訂の面では古活字本寛永版の菅聊卜の功績は現在の国史大系本にまで及び、伊勢貞丈、榊原長俊、大塚嘉樹らはいわば「吾妻鏡辞典」とも言えるような注解を行い、難解な『吾妻鏡』の理解を助けた。
しかしながら、徳川光圀によって開始された『大日本史』などでも『吾妻鏡』を採用してはいるが、星野恒によれば参照の仕方があまり正確ではなく『吾妻鏡』の影響はそれほど大きいものとは見られない。
最もまとまった著述を残しているのは江戸時代後期に徳川幕府書物奉行であった近藤守重であり、『御本日記続録』において家康収集のいわゆる北条本の経緯や、その他当時知られていた別の写本についての比較を行い、現在でも『吾妻鏡』諸本の研究においては重要史料とされている。また江戸時代には「老談一言集」[1]に、頼朝の死についての部分が欠落していることを徳川家康が「名将の疵に成る」と削除させたと記されていたが、近藤守重は家康が関与していない応永写本(黒川本:後述)にも頼朝の死に関する記事が無い(頼朝記の最後の3年分が無い)ことから「俗説信ずるに足らず」としている。
明治から現在までの研究
長らく定説となっていた大正2年八代国治の『吾妻鏡の研究』近代の『吾妻鏡』研究の出発は、星野恒が1889年(明治22)の『史学雑誌』 創刊号に発表した『吾妻鏡考』からである。 星野恒が『吾妻鏡』を取り上げたのはそれまで支配的だった『平家物語』などをベースとした歴史観に対する反証としてだったが[2]、当時の国史編纂をめぐっての星野、重野安繹(しげの やすつぐ)、久米邦武らと、川田剛や国学系・水戸学系歴史家との対立という日本の近代史学黎明期の時代背景もあって、星野のそれは『平家物語』や『太平記』の全否定、逆に『吾妻鏡』は『玉葉』や『明月記』などの当時の公家のリアルタイムな日記と同じレベルで信用するかの論調であった[3]。
それに対し9年後の1898年(明治31)、当時20代後半だった原勝郎が「史学雑誌」第9編第5,6号に『吾妻鏡の性質及其史料としての價値』を発表し、歴史研究における「史料批判」の重要性を強調して、安易に盲信することへの警鐘を鳴らす。
その後、大正時代に入って、当時の帝国大学史料編纂掛(現在の東京大学史料編纂所)の二人の研究者、和田英松と八代国治が、それまでは知られていなかった「吉川本」その他の諸本を紹介しながら、『吾妻鏡』が当初思われていたような同時代の記録ではなく、鎌倉幕府の政所や問注所に残る記録のみならず、京の公家の日記類まで参照しながら後世に編纂されたものであり、またそのなかには多くの誤りや曲筆が含まれることを明らかにする。八代国治が1913年(大正2)に著した『吾妻鏡の研究』は、以降の研究のベースとなった。
戦後の1960年代以降、それまで定説となっていた八代国治の成立2段階説に対して、笠松宏至、益田宗らの反論が起こった。益田宗や平田俊春は、『吾妻鏡』における『明月記』の利用のされ方や、『玉葉』と『吾妻鏡』との関係についての検証を進める。さらに1980年代以降、五味文彦がそれらの指摘を踏まえながら、『吾妻鏡』のベースとなった日記・筆録の推論を行うなど『吾妻鏡』原資料の追究を行った。それらと平行して、現在に伝わる諸写本の研究も進んだ。
編纂時期
明治時代の歴史学者星野恒は、『吾妻鏡』の記述のほとんどを日記(即時の記録)と解し、原勝郎はその説に異を唱えた。しかし、原も後半は日記だろうと推定したが、この両者の見解に対して1912年(大正1)に和田英松は、1912年(大正1)に「吾妻鏡古写本考」の中で、その全てが後世の編纂であるとし、編纂の時期は北条政村・北条時宗が執権・連署の時代(13世紀後半)と推定した[4]。
『吾妻鏡』(吉川本)頼朝将軍記の首書1913年(大正2)、和田の同僚であった八代国治は、『吾妻鏡の研究』[5]において、将軍記の首書(袖書)にある以下の3点に注目する。
頼朝将軍記の首書において、後鳥羽院(後鳥羽上皇)の没後の謚(おくりな。没後に付けられる名前。)は、1239年(延応1)の当初は「顕徳院」だったが、1242年(仁治3)7月8日に「後鳥羽院」と改められたと記述される。したがって、それ以前の記述であるはずがない。
第42巻の宗尊将軍記の袖書きに、後深草院(後深草上皇)が「正応三年(1290)二月十一日、御落餝(出家)」とあり、書かれたのはそれ以降となる。
また後深草院を「院(御諱久仁)」とのみ記し、没後の謚(おくりな)である「後深草院」とは記述していないので、それが書かれたのは、院が没する1304年(嘉元2)7月以前である。
以上の各点から、『吾妻鏡』の編纂は、1290年(正応3)から1304年(嘉元2)の間と見るか、あるいは宗尊将軍記だけが1290年(正応3)以降であり、それ以前は1241年(仁治2)以降1304年(嘉元2)までのどこか、ということになる。
それに対して八代国治は、源氏三代の将軍記とそれ以降三代の将軍記とはその編纂態度に大きな隔たりがあるとして編纂二段階説を唱える。そして前半の編纂年代については、和田と同様に1205年(元久2)6月22日条の記事の末尾に「今日未尅、相州室(伊賀守朝光女)男子平産(左京兆是也)」とあることに着目し、「前三代将軍記は文永2年(1265)3月28日から同10年(1273)5月18日の間に於いて編纂したるものと考ふるは至當のことと信ず」[6]と述べる。それは北条政村が左京権大夫(左京兆はその唐名)であった期間である。そして後半の三代将軍記については、宗尊将軍記の袖書から1290年(正応3)から1304年(嘉元2)の間とした。
長らくそれが定説とされてきたが、1960年代以降、笠松宏至や益田宗が、八代国治の二段階説はそれを裏付ける積極的な証拠に乏しいとして、全てを1290年以降、1300年頃から1304年(嘉元2)の間とした。その理由は以下の3点にまとめられる。
第一の理由は、笠松宏至が1962年に発表した、1205年(元久2)閏7月29日条の河野四郎通信に与えたとされる三代将軍源実朝の御教書についての検証である[7]。八代も、それは「三島文書・関東下知状」によって作られた記事であり、その「関東下知状」は偽文書であろうとしていたが、笠松宏至は同じ「三島文書」に残る1300年(正安2)8月18日付の「六波羅下知状」[8]から、その偽文書は、1297年(永仁5)に第9代執権・北条貞時が発令した永仁の徳政令を根拠として起こした訴訟の証拠として偽造されたものであることを明らかにした。
つまり、三嶋大祝(みしまおおはふり)家の安胤が「永仁の徳政令」を利用して手放した土地を取り戻そうと企んだが、そのためには三嶋大祝家は三代将軍の頃から御家人であったと偽証する必要があったのである。それが六波羅探題から鎌倉に伝わり『吾妻鏡』編纂に利用されたのは1299年(正安1)以降となる。
第二の理由は、1977年の益田宗の指摘である[9]。すなわち、北条政村の極官は左京権大夫(左京兆)であるので、死後も極官で呼ばれるのは通例であり、「左京兆是也」との割書(注記)をもって、それが書かれた時代を北条政村生存中とすることは出来ないというものである。
第三の理由は、『明月記』抜粋の鎌倉伝来時期である。『吾妻鏡』において『明月記』は、実朝将軍記を中心に17箇所[10]も利用されている。しかし、『明月記』は鎌倉時代には写本など無く、原本が藤原定家から子の藤原為家、そしてその子の冷泉為相へと受け継がれ、以降も京の冷泉家を出たことが無い。その記事が『吾妻鏡』に利用されたということは、藤原為家の代に記述されたとは考えられず、訴訟のために鎌倉にも住み、後にはその娘を第8代将軍・久明親王に嫁がせるほどに鎌倉幕府高官と親密になった冷泉為相が、編纂者の依頼に応じて、実朝に関する情報を書き写して送ったと考える他はない。以上の点から八代国治の編纂2段階説は根拠を失い、1980年代以降、笠松宏至や益田宗の説が支持され、2000年の五味文彦『増補 吾妻鏡の方法』においても、これを踏襲している。
後世の編纂物と伝承の利用
『吾妻鏡』を読むとき、それが「日記」形式、つまりあたかも現在進行形のように書かれていることも手伝って、ついそれが真実と思ってしまうか、あるいは逆に「曲筆」と断定しても、編纂者は実は全てを知っていて、政治的思惑、配慮から筆を曲げたと思われがちである。しかし、鎌倉時代後期の編纂者が集めた原史料は、ある意味玉石混合で、リアルタイムな史料、原本そのものもあれば、何世代もの筆を経た鎌倉時代後期における認識や、先祖の遺徳顕彰の加わったもの、ほとんど物語の様な記述など、異質な史料を「日記」形式にまとめていったものと見られる。その中で、後世の編纂物や伝承から採ったと思われる実例には以下のものがある。
木曽義仲追討の宣旨
治承・寿永の乱(源平合戦)については、鎌倉方が直接関与する部分とそうでない部分では、情報の正確さに、かなりの開きがあり、特に、源義仲(木曽義仲)の北陸地方における動向などは、かなり後の時代の京都方資料により補っていると見られる。
例えば『吾妻鏡』では、1181年(養和1)8月13日条の記述に、木曽義仲追討の宣旨が出されたとある。『吾妻鏡』と同様に、鎌倉時代後期の成立とされる『百錬抄』にも同様の記述がある。しかし当時の公家の日記、例えば『玉葉』の1181年(養和1)8月6日条や、『吉記』の同15日条、翌16日条などには「信乃の国逆徒」とあるだけで木曽義仲の名はない。この段階で京が注視していたのは、信濃国に侵出していた甲斐源氏であり[11]、義仲の名が登場するのはそれから2年後の『玉葉』1183年(寿永2)5月16日条が初見である。
『百錬抄』や『吾妻鏡』の編者には、後に木曽義仲が北陸道から京に攻め上ったことから、北陸での戦いは木曽義仲の進路を塞ぐためとの予断があり、義仲追討の宣旨は、それによる編者の誤解であろうと上杉和彦は指摘している[12]。後世から見れば、平家に立ち向かったのは、源氏の源頼朝と木曽義仲との印象が強いが、実際には当時の平家支配に対して、九州、熊野、近江など、全国で各種勢力が蜂起しており、現在では単純な「源氏対平家」ではなかったと理解されている[13]。
有力御家人の伝承・上総介広常と千葉常胤
頼朝は挙兵直後、石橋山の戦いに敗れて船で房総の安房に渡るが、1180年(治承4)8月29日条以降、同年10月6日条の鎌倉入りまで、頼朝の右筆・藤原邦通も北条親子も同行していない。このとき大武士団を率いて馳せ参じ、その後明暗を分けた二人の有力御家人が居る。上総介広常と同族の千葉常胤である。
上総介広常は、後に頼朝の命により殺されたが、その理由も事件のあらましも『吾妻鏡』では明らかではない。ただし上総介広常は後に殺されることを予感させるような人物像として描かれている。その代表例は1180年(治承4)9月19日条の、上総介広常が初めて頼朝に会ったときの話である。『将門記』の古事をひきながら、広常は場合によっては頼朝を討ってやろうと「内に二図の存念」を持っていたが、頼朝の毅然とした態度に「害心を変じ、和順を奉る」という下りである。広常が内心思ったことが後世の編纂者にまで伝えられたと見るのは不自然である。また、このとき上総介広常が率いてきた軍勢は、『吾妻鏡』によれば2万騎であるが、『延慶本平家物語』には1万騎、『源平闘諍録』には千騎とあり、『吾妻鏡』が一番誇張が大きい。
それと対照的なのが千葉常胤の記述である。1180年(治承4)9月9日条で常胤は「源家中絶の跡を興せしめ給うの條、感涙眼を遮り、言語の覃ぶ所に非ざるなり」と感動して涙ぐむ。そして、頼朝はなぜ鎌倉を選んだのかという話に必ず引用されるのも、このときの千葉常胤の献策である。しかし、千葉常胤にとっては、頼朝の父・源義朝は「御恩」を感じるような相手でないことは相馬御厨についての古文書で明らかになっている。
千葉常胤の一族、そして上総介広常が頼朝に加担したのは、『吾妻鏡』が描くように両氏が累代の源氏の郎等であったからではなく、彼らにとっては上総介となった平家の家人・藤原忠清や、平家と結んだ下総の藤原氏、そして常陸の佐竹氏の圧迫に対して、頼朝を担ぐことによってそれを押し返し、奪い取られた自領を復活するための起死回生の賭けであったと解されている。それは、関東で頼朝の元に参じた他の有力領主達にしても同じである[15]。
1192年(建久3)8月5日条には、征夷大将軍となった頼朝の政所始めにおいて、それまでの頼朝の安堵状を回収して政所発給の下文を新たに与えようとしたところ、千葉常胤は「頗る確執」し「常胤が分に於いては、別に御判を副え置」いて欲しいと主張して、特別に頼朝花押の下文を貰ったとあり、千葉常胤を顕彰するその下文の文面が載せられている。『吾妻鏡』には記載はないが、小山朝政もまた特別に頼朝の花押付きの下文を貰ったらしく、その実物が発見されている。そちらは極めて簡潔な安堵状らしいものであるに対して、『吾妻鏡』に載る千葉常胤へのものは、文言が下文としてはあまりにも異様である。
以上各点などを考え合わせて、この期間を詳細に伝えられる家である千葉氏が、先祖顕彰の家伝を資料として提出した可能性が高く、あるいはそれらを元に「頼朝挙兵記」のような形で原型が出来上がっていた可能性も指摘されている。なお、千葉氏の他にこの間頼朝に同行していたのは三浦一族であり、後に一族が滅んだ宝治合戦で北条側に付いて生き残った佐原三浦氏の祖・佐原義連の顕彰記事も、上総介広常に絡んで1181年(治承5)6月19日条などに見られる。