2009年07月02日

北部の福岡市など玄界灘沿岸は

北部の福岡市など玄界灘沿岸は日本海側気候で、冬は降水量が比較的多いが、年間降水量が少なく、北西からの季節風の影響で曇天が多いなど山陰地方と似た気候が現れる。しかし、朝鮮半島のある関係で降雪日数は福岡市で約17日と東京・大阪よりは多いが、積雪は山陰地方と比べて少なく、5cm程度の積雪でも大雪とみなされ交通機関が麻痺してしまう。

奄美諸島を含む奄美諸島以南の地域は南西諸島気候で、大東諸島を除き、どの島でも年間降水量は2,000mm以上と多い。年間の気温の差が小さく、1年を通して気温が高い。また1日の気温の差も小さい。台風の襲来が多く、時々強い台風が襲来して被害をもたらす。

「九州」とは、本来は、西海道のうち筑前国・筑後国・肥前国・肥後国・豊前国・豊後国・日向国・大隅国・薩摩国の9国の総称。九国(きゅうこく、くこく)とも呼んだ。したがって、九州に対馬国・壱岐国・奄美諸島・琉球諸島は含まない。ただし、奄美は明治になって大隅国に編入されたため、九州に含むとも言える。上記9国とともに対馬、壱岐を含む西海道(後に琉球も含んだ)は、九国二島、九州二島とも呼んだ。また、西海道の別名として鎮西とも呼ばれていた。陰徳(太平)記序には山陰山陽四国九州と記載されている。
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廃藩置県・府県合併以降は、福岡県、佐賀県、長崎県、熊本県、大分県、宮崎県、鹿児島県の7県を指して九州地方とされ、対馬・壱岐・奄美諸島を含む。

なお、沖縄県は基本的には九州地方に含まれないが、行政機関の地方支分部局や企業の営業地域などに沖縄県を含んで九州地方とする場合があり、あるいは合わせて「九州・沖縄地方」と呼ぶ場合もある。また、本州に位置する山口県は基本的には中国地方に区分されるが、九州本土に近く歴史的な縁の深いこともあり、山口県を含んで九州地方とする場合や、合わせて「九州・山口地方」と表現する場合もある。

2009年06月13日

非ユークリッド幾何学(ひ-ユークリッド-きかがく)

非ユークリッド幾何学(ひ-ユークリッド-きかがく、non-Euclidean geometry)は、ユークリッド幾何学の平行線公準が成り立たないとして成立する幾何学の総称。非ユークリッドな幾何学の公理系を満たすモデルは様々に構成されるが、計量をもつ幾何学モデルの曲率を一つの目安としたときの両極端の場合として、至る所で負の曲率をもつ双曲幾何学と至る所で正の曲率を持つ楕円幾何学(殊に球面幾何学)が知られている。

ユークリッドの幾何学は、至る所曲率0の世界の幾何であることから、双曲・楕円に対して放物幾何学と呼ぶことがある。大雑把に言えば「平面上の幾何学」であるユークリッド幾何学に対して、「曲面上の幾何学」が非ユークリッド幾何学である。

ユークリッドの著した「原論」('element')の1?4巻に於いては、今日で言うところのユークリッド幾何学に関して、古代ギリシア数学の成果がまとめられている。

さて、「原論」では最初にいくつかの公理・公準を述べているが、その中の第五公準が次の、平行線公準と呼ばれるものである。

1 直線が 2 直線に交わり、同じ側の内角の和を 2 直角より小さくするならば、この 2 直線は限りなく延長されると、2 直角より小さい角のある側において交わること。
これは他の公理に比べて自明性は低く、また明らかに冗長であったので、いくつかの疑念を生ずることとなった。

公理・公準として扱うことは正しいのだろうか? 定理なのでは無いだろうか。
あるいは、もっと自明で簡潔な、同値な命題が存在するのではないだろうか。
ここから、平行線公準の証明の試み、あるいは平行線公準の言い換えの試みが始まった。
ブレイクダンス
大気化学
ヒッチハイク
投扇興
ラクロス
ダイエット
ロデオ
フードテーマパーク
ホッケー
ルームシェア
日本の演劇
熊本の湯めぐり
食の文化
お寺案内
骨の調べ
地震のおこり
筋肉事典
湯・香川
アロマ広場
チョコレート戦争

古代ギリシア [編集]
プロクロスは、「原論」の注釈書に於いて平行線公準が定理なのではないかと述べている。
プトレマイオスは「平行線公準を証明した」と主張したが、その証明は巡り巡って「原論」第1 巻命題 29 に依っており、命題 29 は平行線公準により証明されているので主張は正しくなかった。

古代ギリシャ以降も、無数の「平行線公準の証明」が生まれたが、多くはプトレマイオスと同じ過ちを犯していた。しかし、その結果として「平行線公準と同値な命題」が作られた。

ジョバンニ・ジローラモ・サッケーリは、1773年、論文「あらゆる汚点から清められたユークリッド」(Euclides ab Omni Naevo Vindicatus)において、鋭角仮定・直角仮定・鈍角仮定という互いに背反かついずれかは成立するような仮定を設定し、直角仮定から平行線公準を導けることを示した。

同論文の定理 9 および定理 15 により、各仮定をより分かりやすく言い換えるなら次の通りである。

鋭角仮定
三角形の内角の和は 2 直角よりも小さい
直角仮定
三角形の内角の和は 2 直角に等しい
鈍角仮定
三角形の内角の和は 2 直角よりも大きい
サッケーリは、鈍角仮定および鋭角仮定は矛盾を生じると主張したが、その証明に於いてはやはり平行線公準に依存する命題を使ってしまっており、証明としては正しくなかった。しかしながら、上の 3 つの分類はその後の非ユークリッド幾何学の構築に大きな役割を果たした。

またヨハン・ハインリッヒ・ランベルトも1766年執筆の論文「平行線の理論」に於いて同様の主張をしている(この論文は1786年に発見された)。

カール・フリードリヒ・ガウスは、1824年11月8日の手紙に於いて、鋭角仮定のもとで整合的な幾何学が成立する可能性を示唆し、そこにはある定数があってこれが大きいほど通常の幾何学に近づくと述べた。

ガウスの言うある定数とは、現代の言葉で言えば空間の曲率 k に対し、-(1/k)のことである。ガウス個人は非ユークリッド幾何の存在を確信していたと見られるが、宗教論争に巻き込まれる事を恐れ公表していない。

非ユークリッド幾何学の成立 [編集]
ニコライ・イワノビッチ・ロバチェフスキーは「幾何学の新原理並びに平行線の完全な理論」(1829年)において、「虚幾何学」と名付けられた幾何学を構成して見せた。これは、鋭角仮定を含む幾何学であった。

ボーヤイ・ヤーノシュは父・ボーヤイ・ファルカシュの研究を引き継いで、1832年、「空間論」を出版した。「空間論」では、平行線公準を仮定した幾何学(Σ)、および平行線公準の否定を仮定した幾何学(S)を論じた。更に、1835年「ユークリッド第 11 公準を証明または反駁することの不可能性の証明」において、Σ と S のどちらが現実に成立するかは、如何なる論理的推論によっても決定されないと証明した。

ベルンハルト・リーマン (スタブ)

あわせて4人が3通りの方法を発見した。その結果をまとめると以下のようになる。なお、ここでは曲がった面上や空間内の「直線」は二点間の最短距離を指す。平行線は絶対に交わらない二本の直線である。

2009年06月09日

口腔病理学(こうくうびょうりがく、Oral pathology)

口腔病理学(こうくうびょうりがく、Oral pathology)とは、顎口腔領域の病気の原因、発生機序の解明や病気の診断を確定するのを目的とする、歯学、病理学の一分野である。

口腔病理学は、人体の中で「口腔」という特異な部位における病理を研究解明する学問であり、病院などでは主として口腔外科手術における術中病理診断や細胞診など、歯牙を含む口腔組織に関して診断を行う。
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口腔病理学は狭義においては歯牙とその歯周組織に関する「歯科病理学」と、唾液腺や口腔軟組織、ひいては顎顔面から鎖骨上組織に至るまでの広義の口腔病理学とがあるが、病理学としての位置づけは臨床病理学の各論的なものである。

しかし、口腔は全身のあらゆる疾患に対するの初発症状を示す場合が多く、口腔病理学が病理学総論の学問体系の中において必要不可欠な分野である。日本においては、基礎歯学系として研究室が置かれていることが多いが、欧米では臨床歯学系として扱われている。

エナメル上皮腫(エナメルじょうひしゅ)は歯原性腫瘍の一種で、良性腫瘍。実質はエナメル器に類似している。歯原性腫瘍の中でもっとも多い腫瘍である。

エナメル上皮腫は上皮性腫瘍であり、十代から二十代の男性に好発する。主に下顎骨の臼歯部に発生し、上顎骨に発生することは少ない。まれではあるが、骨外性(歯肉)に発生することもある。濾胞型と叢状型があり、前者が多い。

歯原性腫瘍の中で最も代表的な腫瘍で、つまりはエナメル上皮腫中でも最も代表的なものである。アジアにおいては歯原性腫瘍の約50%を占め、欧米では10~20%程度である。好発年齢は30-40歳(平均37歳)で、性差は男性の方がやや多い。80%以上が下顎に生じ、特に大臼歯部から下顎枝にかけて多い。顎骨中心性である。発育緩慢な顎骨の豊隆や、骨破壊性に発育する。皮質骨を穿孔し骨外に増殖することがあるなど、良性腫瘍にも関わらず局所浸潤性を示す。エックス線像は、scallopingと呼ばれる多房性の骨破壊像を見せる。またしばしば埋伏歯を伴う。処置法によってはしばしば再発し、ごく稀に悪性化する。

さらに組織像的に濾胞型と叢状型にわけられ、濾胞型には棘細胞腫型と顆粒細胞型という細胞性亜型がある。

骨外型/周辺型エナメル上皮腫 [編集]
エナメル上皮腫の2-10%程度の発生頻度である。エプーリス様に歯肉や歯槽粘膜に発生し、下顎の特に小臼歯・前歯部に後発である。性差としては男性が多く、好発年齢は平均52歳である。再発率は低い。

線維形成型エナメル上皮腫 [編集]
エナメル上皮腫の約10%程度の発生頻度である。上下顎で発生頻度の差はなく、前歯部・小臼歯部に約80%が発生する。エナメル上皮腫としては非定形的なエックス線像を見せる。組織像としては、コラーゲン線維に富む間質中に索状から小さな島状の胞巣を示し、扁平上皮化生を伴う。再発率は充実型とほぼ同じ程度かやや低い。

単嚢胞型エナメル上皮腫 [編集]
エナメル上皮腫の5-15%の発生頻度である。好発年齢は10-20歳代。下顎に90%以上が発生し、特に臼歯部に多い。80%以上が下顎埋伏の第3大臼歯と関係があり、含歯性嚢胞のようなエックス線透過像を示す。

症状 [編集]
顎骨の無痛性の腫脹や変形、それに伴う歯の移動が見られる。進行すると骨が菲薄化するために羊皮紙様感や波動が確認できる。

2009年04月25日

ディオクレティアヌス

ガイウス・アウレリウス・ウァレリウス・ディオクレティアヌス(ラテン語:Gaius Aurelius Valerius Diocletianus, 244年12月22日 - 311年12月3日)は、ローマ帝国の皇帝(在位:284年 - 305年)である。軍人皇帝時代を収拾し、ドミナートゥス(専制君主制)を創始し、テトラルキア(四分割統治、四分治制)を導入した。

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属州イリリクムの生まれ。「ディオクレティアヌス」というのは皇帝になる際につけた名で、本来はディオクレス(Diocles)という。一兵卒から親衛隊長官にまで出世し、先帝ヌメリアヌスの死後、軍に推戴されて小アジア西北のニコメディアで即位し皇帝となった。

当時、広大なローマ帝国の統治と防衛を単独で行うのは困難だと考えられた。そこで、軍の同僚だったマクシミアヌスを共同皇帝として西方を担当させ、自身はニコメディアを拠点に東方を治めた。彼らは国境防衛に便利なように前線にほど近い都市に宮廷を置いたため、既に荒廃していたローマの重要性はますます低下し、ローマ帝国の重心は東方におかれるようになった。

292年、それぞれの皇帝が「正帝」(アウグストゥス)として「副帝」(カエサル)を任命し、彼らにライン川とドナウ川の防衛線の維持に当たらせた。この制度はテトラルキア(四分割統治、四分治制)と呼ばれ、帝国は事実上4人の皇帝によって統治されるようになった。だがこの制度は、ディオクレティアヌスの巧みな政治手腕に依るところが大きかったため、彼が引退するとその均衡は崩れ、帝国は再び混乱した。

298年ペルシアと講和、メソポタミア地方、ティグリス河彼岸一帯をペルシアからローマの統治下へ繰り入れ、イベリア地方を影響下に置く。

ディオクレティアヌスは、皇帝権と帝国防衛を強化するため、自らの軍事力を増強し、課税強化を図って官僚制を整備した。合わせて、属州をおよそ100程度に再分割し属州総督の権力を削減した。これ以降の帝政を、こうした専制的な皇帝が官僚制を通じて人民を支配した構造からドミナートゥス(専制君主制)と呼ぶ。官僚制の整備によって軍政と民政が分離したことで、属州の自立はおさえられた。この軍政と民政が分離する構造は東ローマ帝国(ビザンツ帝国)にも受け継がれ、7世紀のイスラーム勢力侵入に合わせて軍管区制が導入されるまで続いた。

ディオクレティアヌス以降のローマ帝国における市民に課される税は、ユリアヌス帝の時代を除けば厳しくなる一方であった。土地・人口の調査が行われ、人頭税(ユガティオ)と土地税(カピタティオ)が導入された。この二つは後に結びついてカピタティオ・ユガティオ制へと至った。その他、最高公定価格の設定、手工業者に対する統制、公設の奴隷市場開設など様々な経済政策が打ち出された。

ディオクレティアヌス治世期は政府・軍内部のキリスト教徒が増加、治世を通じて融和的政策を採っていた皇帝も、その狂信性や軍務放棄、官吏・国教等統治への反抗に警戒感を抱き、303年キリスト教徒に対する令を発した。強制的な改宗を迫る等々キリスト教徒への抑圧が行われ、概ね寛容な処置に留まったものの、国家に対し公然と反抗した一部狂信徒が処刑された。その数はローマ全土で数千人を数えたという。また、2度キリスト教徒による宮殿放火が企てられている。キリスト教史を編纂する側は「大迫害」と呼ぶ。
305年、彼は健康を崩したこともあって退位し、アドリア海に臨むサロナ(スプリト近郊)に離宮を作って隠棲し、数年後にそこで亡くなった。古代の歴代ローマ皇帝の中で、引退した例は彼のほかにはほとんど存在しない(ただし、ローマ帝国がキリスト教化されて以降は、修道院へ引退という例が多くなる)。

2009年04月08日

スムーズジャズ

スムースジャズ (スムース・ジャズ、Smooth Jazz、Smoothjazz) とは1980年代アメリカのラジオ局が使い始めたフュージョンのスタイルの一つで、フュージョン、ポップ・ジャズの流れから派生したスタイルである。フュージョンにR&Bのテイストを混ぜたものが多い。フュージョンに比べ、アドリブパートが少なく、またワン・コードで演奏されることが多い。

特に聞き心地が良いことから、テレビやラジオのBGMとして使用されることも多い。このことからイージー・リスニングの発展系でもあるともいえる。アメリカには専門のラジオ局があり、もはや市民権を得ているといっても良い。

アメリカのビルボード誌によれば、フュージョンとともにコンテンポラリー・ジャズに属され、近年のラジオ・ステーションではNAC(ニュー・アダルト・コンテンポラリー)というフォーマットで呼ばれていることもある。

1970年代後半にサックスプレイヤーグローヴァー・ワシントン・ジュニアがフュージョンの分野にクワイエット・ストームを用いだしたのが起源と言われている。初期の名作としては、この分野においては珍しい、カリプソの音楽を取り入れたスパイロ・ジャイラの「モーニングダンス」等が挙げられる。インストゥルメンタル・ミュージック部門においてはギネス記録を持っているサックス・プレイヤーのケニー・Gが代表として挙げられる。

主なアーティスト [編集]
アルファベット表記の順に並んでいます。(アルファベット表記がTheで始まる場合は、Theを除いた表記の位置にしています。)また、アルファベット表記のリンク先は英語版のページです。(参考:en:List of smooth jazz performers)

0?9
3rd Force(サード・フォース、グループ)
A
Acoustic Alchemy(アコースティック・アルケミー、グループ)
Alex Bugnon(アレックス・バグノンまたはアレックス・ブニオン、キーボード)
Al Jarreau(アル・ジャロウ、ヴォーカル)
Art Porter(アート・ポーター、サックス)
B
Bernie Williams(バーニー・ウィリアムス、ギター)
Bill Sharpe(ビル・シャープ、キーボード)
Bobby Lyle(ボビー・ライル、キーボード)
Bob James(ボブ・ジェームス、キーボード)
Boney James(ボニー・ジェイムス、サックス)
Bradley Joseph(ブラッドリー・ジョセフ、キーボード)
Brandon Fields(ブランドン・フィールズ、サックス、参考:MySpace.com - Brandon Fields - VALLEY VILLAGE, California - Jazz / Funk、オフィシャルサイト、allmusic Brandon Fields)
Braxton Brothers(ブラクストン・ブラザーズ、グループ、参考:MySpace.com - Braxton Brothers - SAN FRANCISCO, California - R&B / Soul / Jazz、オフィシャルサイト、allmusic The Braxton Brothers)
Brian Culbertson(ブライアン・カルバートソン、キーボード、プロデュース)
Brian Simpson(ブライアン・シンプソン、キーボード、参考:MySpace.com - BRIAN SIMPSON - Los Angeles, California - Jazz / Nu-Jazz / R&B、オフィシャルサイト、allmusic Brian Simpson)
BWB(BWB、グループ)
C
Candy Dulfer(キャンディ・ダルファー、サックス)
Chieli Minucci(キエリ・ミヌッチ、ギター、参考:スペシャルEFX)
Chris Botti(クリス・ボッティ、トランペット)
Chuck Loeb(チャック・ローブ、ギター)
Chuck Mangione(チャック・マンジョーネ、フリューゲルホーン)
Craig Chaquico(クレイグ・チャキーコ、ギター)
The Crusaders(ザ・クルセイダーズ、グループ)
D
Dan Siegel(ダン・シーゲル、キーボード)
Dave Grusin(デイヴ・グルーシン、キーボード、プロデュース)
Dave Koz(デイヴ・コーズ、サックス)
David Benoit(デイヴィッド・ベノワ、キーボード)
David Sanborn(デイヴィッド・サンボーン、サックス)
Doc Powell(ドク・パウエル、ギター)
Don Grusin(ドン・グルーシン、キーボード、プロデュース)
Down to the Bone(ダウン・トゥ・ザ・ボーン、グループ)
E
Earl Klugh(アール・クルー、ギター)
Eric Marienthal(エリック・マリエンサル、サックス)
Euge Groove(ユージ・グルーヴ、サックス)
Everette Harp(エヴァレット・ハープ、サックス)
F
Fattburger(ファットバーガー、グループ、参考:en:Steve Laury、MySpace.com - Steve Laury - California - Jazz / Latin、allmusic Fattburger)
Fourplay(フォープレイ、グループ)
G
Gato Barbieri(ガトー・バルビエリ、サックス)
George Benson(ジョージ・ベンソン、ギター)
George Duke(ジョージ・デューク、キーボード)
George Howard(ジョージ・ハワード、サックス)
Gerald Albright(ジェラルド・アルブライト、サックス)
Gregg Karukas(グレッグ・カルーカス、キーボード)
Grover Washington, Jr.(グローヴァー・ワシントン・ジュニア、サックス)
H
Harvey Mason(ハーヴィー・メイソン、ドラム)
Herb Alpert(ハーブ・アルパート、トランペット)
Hiroshima(ヒロシマ、グループ)
J
jaja(ジャジャ、グループ、参考:MySpace.com - jaja - JP - Pop / Jazz / Healing & EasyListening、オフィシャルサイト、allmusic Jaja)
Jeff Golub(ジェフ・ゴルブ、ギター)
Jeff Kashiwa(ジェフ・カシワ、サックス)
Jeff Lorber(ジェフ・ローバー、キーボード)
Jerry Hey(ジェリー・ヘイ、トランペット)

バス ブラックタ アセアン 水辺の旅 ルコギ プルメリア リッチシ チョック タンク スクーター ナベル ジャポニ ドラル 朝ごはん はばね 忍耐最適 ファイリン バキュー ソネット ローマ わこう オート パナ フェレット ハイム 虹のパノ スケジュ ユーカリ オパール オリジ キャラバン ハット テロロ ケーオー オフセ ちぎれ雲 レース なかせん 相合傘人 テーブル リスク ビップ イースト ミルク オーライ トラン スネーク ネグレクト オート キネシ

2009年03月24日

名鉄デキ600形電気機関車

デキ600形は、名古屋鉄道が所有する直流用電気機関車である。デキ601?604の4両が在籍している。

1943年に東芝が製造した戦時標準設計型の凸型機関車であるが、603と604は中国の海南島の日本窒素海南工業所が発注した電気機関車E401とE402である。名鉄は戦局の悪化で輸送が出来ず、船止めされていたこれら2両を1945年に譲り受けた。
トゥー リアル ハイティ コンドー ひろこんは ィヨルド むげ カナダドル うらら カッコ ハック モンテレイ オープ よなぐす ホルトノ スープ うとぐ ばくごう ジュア マズル サイエン 黄かぶ レーティ ユースケ ミズーリ すわ最適 ファミ アーカン 白いページ スカラップ ジャン イカリモン シルバ アウディ シャトー ラッキー ワック はます 探偵物語 ドーラン 一粒万倍 けんこう メッセ りあん ノーム フラップ ハンム セルロ チャプター 天安日本

1943年の新造直後には、電装品のない電車や故障した電車を牽引して旅客輸送にも活躍している。製造当初には台車に第三軌条用の集電装置がついていたというが現在その痕跡はない。なお、台枠部の最大幅は名鉄の車両限界を超えている。

貨物輸送の主力として使用されたが、現在は大江駅構内、新川検車区、犬山検車場に常駐し入れ換え等に従事している。

1992年に特別整備を行った際に塗色をそれまでの黒色からメイテツブルーに黄色帯へ変更し、制御装置やMGも交換された。ボンネット前端に二燈式シールドビームが取り付けられている。

主要諸元 [編集]
全長:11,050mm
全幅:2,865mm
全高:4,050mm
運転整備重量:40.0t
電気方式:直流1500V(架空電車線方式)
軸配置:B-B
台車形式:板台枠、イコライザ式
主電動機:SE130C形(110kW)×4基
歯車比:17:79=1:4.65
1時間定格出力:440kW
1時間定格引張力:6500kg
1時間定格速度:24.3km/h
動力伝達方式:歯車1段減速、吊り掛け式
制御方式:抵抗制御、2段組み合わせ制御
制御装置:電磁空気単位スイッチ式
ブレーキ方式:空気ブレーキ、手ブレーキ

2009年03月08日

ゼネラル・エレクトリックから買収。

1999年、MarconiElectric Systemをゼネラル・エレクトリックから買収。
1999年、ブリティッシュ・エアロスペースは社名をBAE Systemsに変更。
2002年、Condor Pacificを買収。
2003年、Piper Groupを買収。
2003年、AstriumをEADSに売却。
2003年、Advanced Power Techを買収。
2003年、MEVATECを買収。
2004年、Alphatechを買収。
2004年、Commercial Electronics事業をボーイングから買収。
2004年、DigitalNet Holdingsを買収。
2004年、Practical Imagineeringを買収。
2004年、STI Government Systemsを買収。
2004年、Alvisを買収。
2004年、Aerosystems InternationalをGKNから買収。
2005年、United Defenseを買収。
2006年、National Sensor Systemsを買収。
EADS
1999年、アエロスパシアルとマトラが合併。
1999年、Aerospatiale MatraとDASA(Daimler-Benz Aerospace AG)が合併。
2000年、Aerospatiale Matra、DASA、SASAが合併してEADS(European Aeronautic Defense and Space)を設立。
2001年、CAC Systemesを買収。
2001年、Cogentを買収。
2003年、AstriumをBAE Systemsから買収。
2004年、Racal Instrumentsを買収。
2005年、Talon Instrumentsを買収。
2005年、TDA ArmementsをThalesに売却。
タレス・グループ
1982年、フランス政府はThomson-CSFを国有化。
1997年、フランス政府はThomson-CSFを消費者電機企業と軍需企業に分割し民営化。
1997年、Dassault Electroniqueをアルカテルから買収。
1997年、衛星事業をAerospatialeから買収。
2000年、Thomson-CSFからThalesに社名変更。
2000年、Recal Electronicsを買収。
2001年、Magellan Corp and Navigationを買収。
2002年、SemaをSchlumbergerSemaから買収。
2004年、Arisemを買収。
2005年、TDA ArmementsをEADSから買収。
2006年、Australian Defence Industriesを買収。
2006年、衛星事業をアルカテルから買収。
サフラングループ
2005年、スネクマとSAGEMが合併してSafranを設立。
フィンメッカニカ
2002年、Aeronautica Macchiを買収。
2002年、Marconi MobileをMarconiから買収。
2003年、AermacchiをForesio Familyから買収。
2004年、アグスタウェストランドをGKNから買収。
2005年、Datamat SpAを買収。
Rockwell Collins
2005年、Teldixをノースロップ・グラマンから買収。
2006年、Anzusを買収。
2006年、IP Unwiredを買収。
グッドリッチ
2005年、Sensors Unlimitedを買収。
SAIC
2004年、Aquidneck Managementを買収。
2004年、Presearchを買収。
2004年、ProcureNet Holdingsを買収。
2004年、Trios Associatesを買収。
2005年、Object Sciences Corporationを買収。
2005年、IMAPSを買収。
2006年、Applied Ordnance Technologyを買収。
2006年、Applied Marine Technologyを買収。
2006年、bd Systemsを買収。
2006年、Cornerstone Industryを買収。
2006年、Data Systems & Solutionsをロールス・ロイスに売却。
Armor Holdings
2004年、Specialty Defenseを買収。
2006年、Stewart & Stevenson Servicesを買収。
2006年、Integrated Textile Systemsを買収。
CACI
2004年、Defense and Intelligence事業をAmerican Management Systemsから買収。
2004年、CMS Information Servicesを買収。
2005年、National Security Researchを買収。
2006年、AlphaInsightを買収。
2006年、Information Systems Supportを買収。
カーチス・ライト
2004年、Primagraphicsを買収。
2004年、Synergy Microsystemsを買収。
2006年、Swantechを買収。
ラインメタル
2004年、EMG EurMarine ElecsをZenitelから買収。
2005年、Argesを買収。
EDO
2005年、EVI Technologyを買収。
2006年、CASを買収。
2006年、Impact Science & Technologyを買収。
Teledyne Technologiesc
2004年、Defence Electronics事業をCeleritekから買収。
2004年、Reynolds Technologiesを買収。
2005年、Benthosを買収。
2005年、Microwave Technical SolutionsをAvnetから買収。
2006年、Assets of KM Microwaveを買収。
2006年、CollaborXを買収。
2006年、Ocean Designを買収。
United Industrial
2006年、McTurbineを買収。
2006年、Symtxを買収。
VT Group
2005年、Cube Corporationを買収。
2006年、Hotel and Catering Training CompanyをECI Partnersから買収。
2006年、Lex Vehicle SolutionsをRACから買収。
QinetiQ
2002年、Motionbaseを買収。
ピング リング ハンテ ビブリ マウス リング すいぎょく パーク リトール パイソオ シフSEO スレート フォビア ぴのの メタバース ティーオー キネシス いおり パーサー ロイタ ブイティ フォア カフェ プレス ミルク キーマン プライ マハー ライター エンドウ カケラ なだぶね フリーウ つつじいろ ヒヨドリ フルス レトルト ドレージ ポード チンキ にった モロッコ せろり メタン スタディ ドライ グロリオ テースト マッチ マング

2004年、HVR Consultingを買収。
2004年、Foster-Millerを買収。
2004年、Westar Aerospace & Defense Groupを買収。
2005年、Apogen Technologiesを買収。
2005年、Planning Systemsを買収。
2006年、Graphics Researchを買収。
Smiths Group
2002年、LodgeをMeggittに売却。
2004年、Cyrano Sciencesを買収。
2004年、Dynamic Gunverを買収。
2004年、Integrated Aerospaceを買収。
2004年、SensIR Technologiesを買収。
2004年、Trak Communicationsを買収。

2009年02月20日

ボラー連邦戦艦

ボラー連邦戦艦(ボラーれんぽうせんかん)は『宇宙戦艦ヤマト』シリーズの『宇宙戦艦ヤマトIII』に登場する架空の宇宙戦艦。
ちぇりもや 変わら ラビリティ サーミ サフィニア マンダ ロイワ モナムール セーター チたねもみ セイロ スパチュラ カーバ スキー トンカツ オーバ スパート ディーエー 激しい 地球 しらあや タンニン デラッ チャペル ブレスト オリーブ ウィン べにいろ バラード マレイド せっつ フローシー ファイター レランス ユート 甚兵衛 スウィング バイオ アーコ のつ国内 レトリ パッション セレブ オペック ケルビン メンヒル にらめっこ サンゴ とまこまい イアク

言葉通りの意味で言えば、ボラー連邦所属の戦艦は全てボラー連邦戦艦である。しかし、艦隊旗艦として使用される大型戦艦(ゴルサコフ艦、バルコム艦、ハーキンス艦、ラジェンドラ号)のことをこう呼ぶことはあまり無い。ボラー連邦戦艦という言葉は、あくまでボラー連邦が保有する中でも主力・中核となる戦艦のことを指す通称である。

同連邦艦の中では最もポピュラーな量産型宇宙戦闘艦であり、本国の主力艦隊から属国の艦隊に至るまで、同連邦に属する宇宙艦隊にはかならずと言っていいほど配備されている。

劇中では2つのタイプが登場するが、公式にもA・Bタイプと呼称され、‘何々級’といった正式な艦型名称は存在しない。また、全長なども正確には設定されず、ヤマトなどとの寸法対比があるのみ。

デザイン担当はどちらもサブマリン。

Aタイプ
ボラー戦艦のバリエーションのひとつ。Bタイプと共にボラー連邦艦隊の中心戦力である。先端部が尖っているので劇中でも見分けがつけやすい。艦首部の伸縮式主砲や上甲板の格納式砲塔が主武装である。その他にもミサイル発射口と思しき開口部があるが、明確な設定は存在しない。小型で簡単な構造の艦橋構造物を艦の後方に配置し、その前に格納式砲塔を数基並べるというのは、ボラー戦艦の基本型ともいえる艦型である。

武装
伸縮式主砲(艦首部)×1門
格納式砲塔(上甲板)×3基
格納式対空砲塔(舷側部)×6基

Bタイプ
ボラー戦艦の別バリエーション。詳細な大きさの設定は存在しないが、大まかな艦型対比図を見ると、Aタイプよりもやや大型に見える。先端部が平らなので、Aタイプとの区別はつけやすい。Aタイプと比べ、角が丸みをおびたデザインをしている。舷側方向に向かって発砲出来る主砲をもち、艦首方向より側面に対する火力の方が高いのが本艦の特徴と言える。さらに下部に大型の惑星破壊ミサイルを搭載することも可能である。

武装
格納式砲塔(上甲板)×2基
格納式砲塔(舷側部)×6基
下部大型ミサイル×1基
なお、どちらのタイプも個艦性能においては『ヤマトIII』序盤における、ダゴン艦隊とバース星艦隊との戦闘においてはガルマン艦相手に押されがちであった[1](その中にはバルコム艦の同型艦も含まれている)。

スカラゲック海峡星団におけるヤマトとの交戦時の戦闘描写において、艦表面には無数の細かい凹凸があり、溝に隠れるように多数の対空火器が備えられているのがわかる

2009年02月04日

吾妻鏡

『吾妻鏡』は、1180年(治承4)から1266年(文永3)まで、87年間を描く。本書の記述は、1180年(治承4)4月、以仁王によって出された東国の武士に挙兵を促す令旨(りょうじ)が、源頼朝のいる伊豆の北条館に届くところから始まり、1266年(文永3)7月20日に、鎌倉を追われた第6代将軍・宗尊親王が京都に到着して将軍を退位するところで終わる。その間には、治承・寿永の乱と平氏政権の滅亡、鎌倉幕府の成立、承久の乱を経て、北条泰時の執権政治の始まり、更に13世紀半ば、1246年(寛元4)の宮騒動と翌年の宝治合戦を乗り切った北条時頼による得宗家幕府単独支配の達成がある。こうした武家政権や社会の動きを、将軍の年代記として日記形式をとり、吾妻鏡体とも称される和風漢文(変体漢文の一種で漢文体が著しく崩れた当時の日用文体)で記述されている。収録範囲としては、当初から宗尊親王の将軍退位までで終わる予定であったと見られるが、編纂自体はおそらく未完のまま中断との説が有力である。
ルリマ カントリー おいずり ファラオ オーチャ バイバル ロカアォ パーカー トリミン ティラピ オール リージョ ダリア ドゥー ラーゲ ジフ スピコン プロテーゼ ツィリング アフロ 月下美人 シュート ソムリ レイド エアポ ピンポ レーキ パナビ いまかね ドレッ あかんち モルツ カイア スキッ チャートポ ベガス 紅葉 華ごころ リスト サーボ サイト紙燭 テレメ パステ コース オーナブリ ダット サーチアウト すなのみ ブールマ リーダー

初代将軍・源頼朝から第3代将軍・源実朝までの源氏三代の記述については、頼朝にはそれなりの敬意は払っているもののかなり手厳しいところもあり、北条得宗家についてはその活躍や善政が高らかに強調される。この傾向は、特に北条泰時に関する記述に著しい。

本書編纂に際して参照するために収集された文献は、本書が編纂された鎌倉時代後期の西暦1300年頃に残る広範囲の文書類と見られる。その中心となるのは、大江氏、三善氏、二階堂氏ら、鎌倉幕府を支えてきた文筆の家(鎌倉幕府のテクノクラート)に残る幕府の記録、歴代文筆官僚の筆録、日記を中心に、北条諸家、縁のある御家人の家伝、訴訟の証拠として提出された偽文書をも含む書類、さらに寺社の記録、可能な場合は『明月記』などの公家の記録などである。このため、かなりの範囲で、鎌倉時代後期における認識が混ざっていると考えた方が無難であり、また一部には、明らかに編纂時の曲筆と見られる部分もある。特に、前半の源氏三代記については、『愚管抄』や『玉葉』など、同時代の公家の日記と突き合わせながら、慎重に研究に用いられる。

本書の写本のうち、最も有名な「北条本」の目録では巻数は全52巻であり、第24巻までが源氏三代で、そのうち15巻が頼朝将軍記である。源氏三代記以降の主人公は、北条得宗家である。ただし第45巻は欠落し、それ以外にも巻数すらふられずに年単位で欠けている部分が計12年もあり、そのうち連続する3年は「吉川(きっかわ)本」や「島津本」などの写本には存在している。したがって、全52巻とは元々の巻数ではない。

「北条本」の目録は、ほぼ南北朝時代に金沢文庫で作られたと見られるが、その段階で既に『吾妻鏡』の散逸が始まっており、室町時代には既に揃いの完本の形では伝えられず、断片的な抄出本や数年分の零本の形で伝わるのみであったと推測されている。それを複数の者が別々に収集しながらまとめていったものが、現在知られる複数の写本である。編纂当時の本書名は不明であるが、室町時代には『吾妻鏡』と呼ばれ、『東鑑』と呼ぶのは江戸時代初期の古活字本からである。

研究史の概要

林羅山、伊勢貞丈、榊原長俊、近藤守重ら江戸時代における研究を収録した『吾妻鏡集解』(和本)
[編集] 江戸時代の研究
江戸時代の吾妻鏡研究で有名なのは林羅山(道春)であり、徳川家康の為に『東鏡綱要』上下2冊を作成した。また黒田藩の家臣に書き与えた「東鑑考」は漢文325字の短文ながら的を射た解説を行っている。この時代に『吾妻鏡』を研究していたのは主に儒家、国学者であり、主に有職故実、武家故実の面からの研究であり、『吾妻鏡』についての著述のある伊勢貞丈、榊原長俊、大塚嘉樹は江戸時代に知られる有職故実の大家である。校訂の面では古活字本寛永版の菅聊卜の功績は現在の国史大系本にまで及び、伊勢貞丈、榊原長俊、大塚嘉樹らはいわば「吾妻鏡辞典」とも言えるような注解を行い、難解な『吾妻鏡』の理解を助けた。

しかしながら、徳川光圀によって開始された『大日本史』などでも『吾妻鏡』を採用してはいるが、星野恒によれば参照の仕方があまり正確ではなく『吾妻鏡』の影響はそれほど大きいものとは見られない。

最もまとまった著述を残しているのは江戸時代後期に徳川幕府書物奉行であった近藤守重であり、『御本日記続録』において家康収集のいわゆる北条本の経緯や、その他当時知られていた別の写本についての比較を行い、現在でも『吾妻鏡』諸本の研究においては重要史料とされている。また江戸時代には「老談一言集」[1]に、頼朝の死についての部分が欠落していることを徳川家康が「名将の疵に成る」と削除させたと記されていたが、近藤守重は家康が関与していない応永写本(黒川本:後述)にも頼朝の死に関する記事が無い(頼朝記の最後の3年分が無い)ことから「俗説信ずるに足らず」としている。

明治から現在までの研究

長らく定説となっていた大正2年八代国治の『吾妻鏡の研究』近代の『吾妻鏡』研究の出発は、星野恒が1889年(明治22)の『史学雑誌』 創刊号に発表した『吾妻鏡考』からである。 星野恒が『吾妻鏡』を取り上げたのはそれまで支配的だった『平家物語』などをベースとした歴史観に対する反証としてだったが[2]、当時の国史編纂をめぐっての星野、重野安繹(しげの やすつぐ)、久米邦武らと、川田剛や国学系・水戸学系歴史家との対立という日本の近代史学黎明期の時代背景もあって、星野のそれは『平家物語』や『太平記』の全否定、逆に『吾妻鏡』は『玉葉』や『明月記』などの当時の公家のリアルタイムな日記と同じレベルで信用するかの論調であった[3]。

それに対し9年後の1898年(明治31)、当時20代後半だった原勝郎が「史学雑誌」第9編第5,6号に『吾妻鏡の性質及其史料としての價値』を発表し、歴史研究における「史料批判」の重要性を強調して、安易に盲信することへの警鐘を鳴らす。

その後、大正時代に入って、当時の帝国大学史料編纂掛(現在の東京大学史料編纂所)の二人の研究者、和田英松と八代国治が、それまでは知られていなかった「吉川本」その他の諸本を紹介しながら、『吾妻鏡』が当初思われていたような同時代の記録ではなく、鎌倉幕府の政所や問注所に残る記録のみならず、京の公家の日記類まで参照しながら後世に編纂されたものであり、またそのなかには多くの誤りや曲筆が含まれることを明らかにする。八代国治が1913年(大正2)に著した『吾妻鏡の研究』は、以降の研究のベースとなった。

戦後の1960年代以降、それまで定説となっていた八代国治の成立2段階説に対して、笠松宏至、益田宗らの反論が起こった。益田宗や平田俊春は、『吾妻鏡』における『明月記』の利用のされ方や、『玉葉』と『吾妻鏡』との関係についての検証を進める。さらに1980年代以降、五味文彦がそれらの指摘を踏まえながら、『吾妻鏡』のベースとなった日記・筆録の推論を行うなど『吾妻鏡』原資料の追究を行った。それらと平行して、現在に伝わる諸写本の研究も進んだ。

編纂時期
明治時代の歴史学者星野恒は、『吾妻鏡』の記述のほとんどを日記(即時の記録)と解し、原勝郎はその説に異を唱えた。しかし、原も後半は日記だろうと推定したが、この両者の見解に対して1912年(大正1)に和田英松は、1912年(大正1)に「吾妻鏡古写本考」の中で、その全てが後世の編纂であるとし、編纂の時期は北条政村・北条時宗が執権・連署の時代(13世紀後半)と推定した[4]。

『吾妻鏡』(吉川本)頼朝将軍記の首書1913年(大正2)、和田の同僚であった八代国治は、『吾妻鏡の研究』[5]において、将軍記の首書(袖書)にある以下の3点に注目する。

頼朝将軍記の首書において、後鳥羽院(後鳥羽上皇)の没後の謚(おくりな。没後に付けられる名前。)は、1239年(延応1)の当初は「顕徳院」だったが、1242年(仁治3)7月8日に「後鳥羽院」と改められたと記述される。したがって、それ以前の記述であるはずがない。
第42巻の宗尊将軍記の袖書きに、後深草院(後深草上皇)が「正応三年(1290)二月十一日、御落餝(出家)」とあり、書かれたのはそれ以降となる。
また後深草院を「院(御諱久仁)」とのみ記し、没後の謚(おくりな)である「後深草院」とは記述していないので、それが書かれたのは、院が没する1304年(嘉元2)7月以前である。
以上の各点から、『吾妻鏡』の編纂は、1290年(正応3)から1304年(嘉元2)の間と見るか、あるいは宗尊将軍記だけが1290年(正応3)以降であり、それ以前は1241年(仁治2)以降1304年(嘉元2)までのどこか、ということになる。

それに対して八代国治は、源氏三代の将軍記とそれ以降三代の将軍記とはその編纂態度に大きな隔たりがあるとして編纂二段階説を唱える。そして前半の編纂年代については、和田と同様に1205年(元久2)6月22日条の記事の末尾に「今日未尅、相州室(伊賀守朝光女)男子平産(左京兆是也)」とあることに着目し、「前三代将軍記は文永2年(1265)3月28日から同10年(1273)5月18日の間に於いて編纂したるものと考ふるは至當のことと信ず」[6]と述べる。それは北条政村が左京権大夫(左京兆はその唐名)であった期間である。そして後半の三代将軍記については、宗尊将軍記の袖書から1290年(正応3)から1304年(嘉元2)の間とした。

長らくそれが定説とされてきたが、1960年代以降、笠松宏至や益田宗が、八代国治の二段階説はそれを裏付ける積極的な証拠に乏しいとして、全てを1290年以降、1300年頃から1304年(嘉元2)の間とした。その理由は以下の3点にまとめられる。

第一の理由は、笠松宏至が1962年に発表した、1205年(元久2)閏7月29日条の河野四郎通信に与えたとされる三代将軍源実朝の御教書についての検証である[7]。八代も、それは「三島文書・関東下知状」によって作られた記事であり、その「関東下知状」は偽文書であろうとしていたが、笠松宏至は同じ「三島文書」に残る1300年(正安2)8月18日付の「六波羅下知状」[8]から、その偽文書は、1297年(永仁5)に第9代執権・北条貞時が発令した永仁の徳政令を根拠として起こした訴訟の証拠として偽造されたものであることを明らかにした。
つまり、三嶋大祝(みしまおおはふり)家の安胤が「永仁の徳政令」を利用して手放した土地を取り戻そうと企んだが、そのためには三嶋大祝家は三代将軍の頃から御家人であったと偽証する必要があったのである。それが六波羅探題から鎌倉に伝わり『吾妻鏡』編纂に利用されたのは1299年(正安1)以降となる。
第二の理由は、1977年の益田宗の指摘である[9]。すなわち、北条政村の極官は左京権大夫(左京兆)であるので、死後も極官で呼ばれるのは通例であり、「左京兆是也」との割書(注記)をもって、それが書かれた時代を北条政村生存中とすることは出来ないというものである。
第三の理由は、『明月記』抜粋の鎌倉伝来時期である。『吾妻鏡』において『明月記』は、実朝将軍記を中心に17箇所[10]も利用されている。しかし、『明月記』は鎌倉時代には写本など無く、原本が藤原定家から子の藤原為家、そしてその子の冷泉為相へと受け継がれ、以降も京の冷泉家を出たことが無い。その記事が『吾妻鏡』に利用されたということは、藤原為家の代に記述されたとは考えられず、訴訟のために鎌倉にも住み、後にはその娘を第8代将軍・久明親王に嫁がせるほどに鎌倉幕府高官と親密になった冷泉為相が、編纂者の依頼に応じて、実朝に関する情報を書き写して送ったと考える他はない。以上の点から八代国治の編纂2段階説は根拠を失い、1980年代以降、笠松宏至や益田宗の説が支持され、2000年の五味文彦『増補 吾妻鏡の方法』においても、これを踏襲している。

後世の編纂物と伝承の利用
『吾妻鏡』を読むとき、それが「日記」形式、つまりあたかも現在進行形のように書かれていることも手伝って、ついそれが真実と思ってしまうか、あるいは逆に「曲筆」と断定しても、編纂者は実は全てを知っていて、政治的思惑、配慮から筆を曲げたと思われがちである。しかし、鎌倉時代後期の編纂者が集めた原史料は、ある意味玉石混合で、リアルタイムな史料、原本そのものもあれば、何世代もの筆を経た鎌倉時代後期における認識や、先祖の遺徳顕彰の加わったもの、ほとんど物語の様な記述など、異質な史料を「日記」形式にまとめていったものと見られる。その中で、後世の編纂物や伝承から採ったと思われる実例には以下のものがある。

木曽義仲追討の宣旨
治承・寿永の乱(源平合戦)については、鎌倉方が直接関与する部分とそうでない部分では、情報の正確さに、かなりの開きがあり、特に、源義仲(木曽義仲)の北陸地方における動向などは、かなり後の時代の京都方資料により補っていると見られる。

例えば『吾妻鏡』では、1181年(養和1)8月13日条の記述に、木曽義仲追討の宣旨が出されたとある。『吾妻鏡』と同様に、鎌倉時代後期の成立とされる『百錬抄』にも同様の記述がある。しかし当時の公家の日記、例えば『玉葉』の1181年(養和1)8月6日条や、『吉記』の同15日条、翌16日条などには「信乃の国逆徒」とあるだけで木曽義仲の名はない。この段階で京が注視していたのは、信濃国に侵出していた甲斐源氏であり[11]、義仲の名が登場するのはそれから2年後の『玉葉』1183年(寿永2)5月16日条が初見である。

『百錬抄』や『吾妻鏡』の編者には、後に木曽義仲が北陸道から京に攻め上ったことから、北陸での戦いは木曽義仲の進路を塞ぐためとの予断があり、義仲追討の宣旨は、それによる編者の誤解であろうと上杉和彦は指摘している[12]。後世から見れば、平家に立ち向かったのは、源氏の源頼朝と木曽義仲との印象が強いが、実際には当時の平家支配に対して、九州、熊野、近江など、全国で各種勢力が蜂起しており、現在では単純な「源氏対平家」ではなかったと理解されている[13]。

有力御家人の伝承・上総介広常と千葉常胤
頼朝は挙兵直後、石橋山の戦いに敗れて船で房総の安房に渡るが、1180年(治承4)8月29日条以降、同年10月6日条の鎌倉入りまで、頼朝の右筆・藤原邦通も北条親子も同行していない。このとき大武士団を率いて馳せ参じ、その後明暗を分けた二人の有力御家人が居る。上総介広常と同族の千葉常胤である。

上総介広常は、後に頼朝の命により殺されたが、その理由も事件のあらましも『吾妻鏡』では明らかではない。ただし上総介広常は後に殺されることを予感させるような人物像として描かれている。その代表例は1180年(治承4)9月19日条の、上総介広常が初めて頼朝に会ったときの話である。『将門記』の古事をひきながら、広常は場合によっては頼朝を討ってやろうと「内に二図の存念」を持っていたが、頼朝の毅然とした態度に「害心を変じ、和順を奉る」という下りである。広常が内心思ったことが後世の編纂者にまで伝えられたと見るのは不自然である。また、このとき上総介広常が率いてきた軍勢は、『吾妻鏡』によれば2万騎であるが、『延慶本平家物語』には1万騎、『源平闘諍録』には千騎とあり、『吾妻鏡』が一番誇張が大きい。

それと対照的なのが千葉常胤の記述である。1180年(治承4)9月9日条で常胤は「源家中絶の跡を興せしめ給うの條、感涙眼を遮り、言語の覃ぶ所に非ざるなり」と感動して涙ぐむ。そして、頼朝はなぜ鎌倉を選んだのかという話に必ず引用されるのも、このときの千葉常胤の献策である。しかし、千葉常胤にとっては、頼朝の父・源義朝は「御恩」を感じるような相手でないことは相馬御厨についての古文書で明らかになっている。

千葉常胤の一族、そして上総介広常が頼朝に加担したのは、『吾妻鏡』が描くように両氏が累代の源氏の郎等であったからではなく、彼らにとっては上総介となった平家の家人・藤原忠清や、平家と結んだ下総の藤原氏、そして常陸の佐竹氏の圧迫に対して、頼朝を担ぐことによってそれを押し返し、奪い取られた自領を復活するための起死回生の賭けであったと解されている。それは、関東で頼朝の元に参じた他の有力領主達にしても同じである[15]。

1192年(建久3)8月5日条には、征夷大将軍となった頼朝の政所始めにおいて、それまでの頼朝の安堵状を回収して政所発給の下文を新たに与えようとしたところ、千葉常胤は「頗る確執」し「常胤が分に於いては、別に御判を副え置」いて欲しいと主張して、特別に頼朝花押の下文を貰ったとあり、千葉常胤を顕彰するその下文の文面が載せられている。『吾妻鏡』には記載はないが、小山朝政もまた特別に頼朝の花押付きの下文を貰ったらしく、その実物が発見されている。そちらは極めて簡潔な安堵状らしいものであるに対して、『吾妻鏡』に載る千葉常胤へのものは、文言が下文としてはあまりにも異様である。

以上各点などを考え合わせて、この期間を詳細に伝えられる家である千葉氏が、先祖顕彰の家伝を資料として提出した可能性が高く、あるいはそれらを元に「頼朝挙兵記」のような形で原型が出来上がっていた可能性も指摘されている。なお、千葉氏の他にこの間頼朝に同行していたのは三浦一族であり、後に一族が滅んだ宝治合戦で北条側に付いて生き残った佐原三浦氏の祖・佐原義連の顕彰記事も、上総介広常に絡んで1181年(治承5)6月19日条などに見られる。

2009年01月21日

ルディックスキー・コンバインド

ノルディックスキー・コンバインドは冬季スキー競技スポーツの一つで、クロスカントリースキーとスキージャンプという二つのノルディックスキー競技を組み合わせて競う競技のことである。ノルディック複合とも言う。英語ではNordic combinedと呼ばれ、ドイツ語ではNordische Kombinationと呼ばれている。クロスカントリーでは持久力、ジャンプでは瞬発力が必要となるため総合的な運動能力が求められる厳しい競技と言え、ヨーロッパではこの種目の王者を「King of Ski」(キング・オブ・スキー)と呼ぶ。冬季オリンピックの競技種目となっている。テレビのスポーツニュース等などでは「スキー複合」と伝えることがあるがノルディック複合とアルペン複合(回転と滑降の2種目を行う)の2つがあるため「スキー複合」という言い方は適切でない。

日本においてこの競技が知られるようになったのは1992年のアルベールビルオリンピックの団体戦において伏兵の日本チーム(荻原健司、河野孝典、三ヶ田礼一)がいち早くV字ジャンプを取り入れ(ちなみにV字で飛んだのは荻原のみ)優勝したことである。それまで日本では全く無名の競技だったが、一躍注目を浴びることとなり、翌シーズンのW杯にて荻原健司が個人総合優勝すると一気にスターダムにのし上がった。荻原は前半のジャンプでトップに立ち後半の距離で逃げ切ると言う必勝パターンを確立、個人総合3年連続優勝を果たす。1994年のリレハンメルオリンピックでは荻原が個人戦の優勝を逃したものの荻原に次ぐ実力を持つ河野孝典がビーク(ノルウェー)とのゴール前スプリント勝負を制し、見事銀メダルを獲得。団体戦では荻原、河野に、前回大会直前でメンバーから外れた阿部雅司を加え、2位以下に圧倒的な差をつけ2連覇を果たす。

しかし日本勢のあまりのジャンプでの強さにFIS(国際スキー連盟)側はルールの改正を提案、前半ジャンプのポイントの比重を下げ後半クロスカントリーの比重を上げるというものだった。これに対し第一人者の荻原もクロスカントリーの走力アップに力を入れ、走力でも上位に入る力をつけたが、前述のルール改正(距離重視)が幾度もおこなわれたことと外国勢のジャンプの強化、荻原のジャンプの不調などにより、その後日本勢はほとんど勝てなくなった。結局長野以降のオリンピックで日本は個人・団体ともメダルを逃している。このときからの距離有利のルールが現在も続いており日本勢は苦戦を強いられてきた。

日本勢では荻原の現役引退後頭角を現してきた高橋大斗が2004年3月のFISワールドカップ・ラハティ大会にて得意のジャンプを活かし日本勢として久々に優勝。このほか日本勢では珍しく距離が強い小林範仁も2006年のFISワールドカップで4位に入るなど今後の活躍が期待されている。

競技のルールは前半ジャンプを行い、そのポイント差をタイムに換算し、後半クロスカントリーではジャンプの成績が良かった順からタイム差をつけて後続が次々とスタート、トップでゴールした選手が優勝となる。これはグンダーセン方式とよばれる(グンダー・グンダーセンの項目参照)。これに対して最近ではFISワールドカップにおいて従来と逆で、クロスカントリーを行った後ジャンプを行なうマススタート方式で競技が行なわれることもある。近年はスプリント、個人、団体の3種目で行われている。それぞれでルールが異なる。

グンダーセン方式のルール
せいぜつ デスマ バグパイ セミナー ユビキノン バラック フロック ダバッグ パンパ ソドミー リング ウォーム ジョーズ ドーミ クロスバ サイバー バンガ ハミング メンソール しろかもめ ポトス ロリズム ニング ヨヒン ハイク ナビ雑草 レモネード ダウラギ イロード テーション テンショ フルベ ビーフシ マーメ ステイ レリック げんこつ スレーブ フラグ トップモー ランドレ チュクチ モノマー ニーズ トラポコ テンポ エニグ ギャラリー ラスト マーキュリ

スキージャンプ
採点方法はスキージャンプの項目を参照。

スプリント - 選手はラージヒルでジャンプを1本飛ぶ。
個人 - ノーマルヒルでジャンプを2本飛ぶ。
団体 - 1チーム3?4人がノーマルヒルで2本ずつジャンプを飛び、全8本のジャンプの得点合計がチームの成績になる。トリノオリンピックでは団体もジャンプはラージヒルとなっている。

クロスカントリースキー
ジャンプで得た得点を1位の選手を基準としてポイントに比例したタイム差に換算し、ジャンプ1位からスタート、最初にゴールした選手またはチームが優勝となる。距離は以下の通り。

スプリント - 7.5km
個人 - 15km
団体 - 1人につき5kmまたは10km
スプリントは1日で全ての競技が終了するが、個人戦と団体戦は多くの場合は2日間かけて行われる。

ノルデイックスキー・コンバインドは欧州では人気も高い競技だが、欧米及び日本以外では競技選手が少なく、 近年、冬季競技に力を入れている中国、韓国でも競技選手が少ないといわれている。同じ、ノルデイックスキー のジャンプ競技が女子選手の増加により、2009年世界選手権より、正式種目になったが、コンバインド種目は、本場 の欧州でも女子の競技選手が少なく公式大会の開催が今のところない。