日本がもたらした衝撃はインド人の多くが共有し、インド独立への日本の支援を期待させた。これに応えるべく日本人の間でも天竺への憧憬を根幹に持つ文化的連帯感とともに有志によるインド独立への支援が続けられた。 そして、日本人にとって忘れてはならないのは、マレー電撃戦で大量投降した英印軍捕虜が多数参加したインド国民軍(INA)と、その指導者としてドイツからはるばるUボートでやって来たベンガルの指導者スバス・チャンドラ・ボースの存在である。
漠然とした連帯感程度でしかなかった日印の協力関係が、第二次世界大戦によって一挙に軍事協力のレベルまで格上げされ、その集約点となったのがインド国民軍だった。
しかし、当時の日本政府・軍は、インド人に援助を与えて自前の軍隊を組織させたにも関わらず、インド独立への積極的関与の重要性が正確には理解できておらず、その準備もなかったため彼らとの共闘は成果を生み出せず、多くのINA兵士はインパール街道で白骨を晒した。
ボース自身は自らの地盤であるベンガル侵攻を主張していたが、これが実現した場合にボースが期待したような内応がどの程度発生したか?という点については全くの未知数である(ベンガル地方は日本軍のビルマ占領により米の流通が減少して300万人の餓死者を出したベンガル飢饉を1943年に経験している)。
第二次大戦でポジティブな成果を殆ど残せなかった日本にとって、インド国民軍は数少ない前向きな成果だったといえるが、インド国民軍の指導者達が日本の傀儡に堕する事を非常に警戒していた事は、彼らがネルー同様の幻滅を既に日本に対して感じていた事実を示すものであり、日本人として肝に銘ずべき点であろう。しかし、それを差し引いても日本人とインド人が血肉を賭して、同じ目標を共有した時期が在った事は空前絶後と言って良い(数少ない例は奈良時代に大仏開眼のため来日した菩提僊那くらいなものだろうか?)。
一方で、マレーでは“弱い”と思われていた英印軍のインド兵が、ビルマ戦線ではその精強さで日本軍を追い詰めた事も広く知られている。 北ビルマのミッチーナで投降した日本軍から隔離保護された従軍慰安婦達は、インド兵の捕虜になる事を恐れていた事を米軍の事情聴取時に語っていたとの報告も残されている。 また、一部の従軍慰安婦達は原隊から脱走する日本兵にすがって、既に紙切れ同然となっていたルピー軍票を詰めた背嚢を背にして共に逃亡したが、これも動機はインド兵を恐れたためと伝えられている。この事は、日本兵が慰安婦達に伝えていたインド兵の精強さについての情報と、当時の日本で広く知られていたイギリス発の小説などに基づくインド人へのネガティブなイメージの反映でもあった。
実際の英印軍インド兵達は、日本人捕虜が収容所で披露した演劇に登場した女形を、本物の女性だと考えて花束を持って押しかけて来るような、素朴な人々でもあったのである。
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